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逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜
逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜
Author: 海野雫

第一話 逃げ場がなくなった日

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-02-01 19:00:57

 ネットカフェの個室は、いつも同じ匂いがした。消毒液と、古いカーペットと、誰かが残していった汗の気配。

 電源の入っていないモニターには、自分の顔が映っていた。頬がこけ、目の下には濃い影が落ち、髪は何日も洗っていないせいでべたりと額に張りついていた。三十歳を過ぎたばかりの顔には見えない。もっとずっと、疲れた顔をしている。

 朝倉湊あさくらそうは、その顔から目を逸らした。

 ここで寝泊まりするようになって、もう何日経っただろう。五日か、六日か。数えることをやめてから、時間の感覚がおかしくなっている。

 財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少し。今夜の延長料金を払えば、明日にはもう何も残らない。

「……そろそろ、ここも出ていかなきゃ」

 呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 行く当てなど、どこにもない。

 友人には連絡できない。借金のことを話せば心配をかけるし、それ以上に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。家族とはとっくに縁が切れている。実家に帰ることなど、最初から選択肢になかった。

 どこに行けばいいのだろう。

 思わず頭を抱えた。最悪、公園で野宿するか。でも今は二月だ。夜は凍えるように寒い。

 ごろりと狭いスペースに寝転がって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に染みる。

 考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えてしまう。

 どうしてこんなことになったのか。いつから道を間違えたのか。

 でも、いくら考えても答えは出てこない。たぶん、逃げ道は最初からなかったのだ。

 いや、違う。

 全部、自分が悪い。

 判断が甘かった。人を信じすぎた。すぐに相手の言葉を鵜呑みにして、疑うことを知らなかった。

 だから、こんなことになっている。

 もっとしっかり考えていれば、流されることなく、自分の頭で判断できていれば。

 考えれば考えるほど、自分が情けなくなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。

 帰る家もない。仕事もない。頼れる人もいない。

 これからどうやって生きていけばいいのか、まったく見えない。

 胃がキリキリと痛み出した。ここ数日、まともな食事をしていない。コンビニのおにぎりを一日一個食べられればいい方で、昨日は水しか口にしていない。

 きちんと食べていないからか、眠りも浅い。身体は疲れているのに、目を閉じると不安ばかりが押し寄せてきて、意識が落ちない。

 何もかもが、悪い方向に転がっている。

 ――もう、寝よう。

 目を閉じた。でも、思考は止まらない。明日のこと、来週のこと、来月のこと。考えたくないのに、頭の中でぐるぐると回り続ける。

 何度も寝返りを打った。狭いスペースで身体の向きを変えるたびに、どこかがぶつかる。膝が壁に当たり、肘が床を擦る。

 疲れているのに、眠れない。

 そのとき、スマートフォンが震えた。

 心臓が跳ねた。

 ビクッと身体を起こして、画面を確認する。

 ――知らない番号。

 指先が冷たくなった。

 嫌な予感がする。いや、予感というより、確信に近い。この番号が何を意味するか、もう分かっている。

 画面を伏せて、目を閉じた。

 着信音は鳴り続けている。震える音が、静かな個室に響く。逃げ場のない空間で、その音はやけに大きく聞こえた。

 やがて、振動が止まった。

 湊は息を吐いた。でも、安堵は長くは続かない。また鳴るだろう。明日も、明後日も。逃げている限り、ずっと追いかけてくる。

 逃げ道は、たぶん最初からなかった。

 何が一番怖いって――明日が来ることだ。

             *

 次の日の朝、目を覚ますと身体中が痛かった。

 首が固まっている。腰が軋む。何日も狭い空間で眠り続けているせいで、身体のあちこちが悲鳴を上げていた。

 重い瞼を持ち上げて、時計を見る。八時を回っていた。

 延長しなければ。

 財布を開いた。千円札が一枚。これを使えば、今夜はもう泊まれない。

 湊はため息をついた。

 仕方がない。今日中にどこか、寝る場所を探さないと。

 のろのろと立ち上がり、荷物をまとめた。といっても、リュックひとつだ。着替え二組と充電器、空っぽの財布。それだけが、今の湊の全財産だった。

 店を出た瞬間、太陽の光が目を刺した。

 眩しい。

 思わず立ち止まって、目頭を押さえた。視界がちかちかする。貧血だろうか。足元がふらつく感覚がある。

 ゆっくりと目を開けると――目の前に、二人の男が立っていた。

 スーツ姿。一人は背が高く、涼しい顔をしている。もう一人はがっちりした体格で、色の濃いサングラスをかけていた。

 背の高い男が、一歩近づいてきた。

「朝倉さん」

 その声を聞いた瞬間、湊の身体は勝手に動いていた。

 振り返って、走り出す。

 人混みを縫うように、駅の方へ向かう。後ろから足音が追ってくる。

 逃げなければ。

 でも、身体が重い。足が上がらない。何日もまともに食べていないせいで、すぐ息が上がる。心臓がばくばくと音を立てて、視界の端が暗くなる。

 細い路地に入り込んだ。

 人通りが少ない。まずい、と思った瞬間には、もう追いつかれていた。

「なんで逃げるんですか」

 背の高い男が、湊の腕を掴んだ。

 息一つ乱していない。涼しい顔のまま、まるで当然のことのように湊を捕まえている。湊だけが、はあはあと荒い息を吐いていた。

「約束しましたよね。連絡がつかないと困るんですけど」

「……すみません。今、仕事を……」

 男は大きなため息をついた。目は笑っていなかった。

「その『今』、もう何回目ですかね? 本当に探してるんですか、仕事」

 嘘でも肯定しなければならない。湊は無理やり首を縦に振った。

「は、はい……探してます」

 声が震えていた。自分でも分かるほど、情けない声だった。

 もう一人の男――サングラスの男が、ゆっくりと近づいてきた。

「朝倉さん」

 低い声。関西訛りが混じっている。その声には、妙な粘りがあった。

「逃げ回るんは別にええんですよ。こっちも仕事やから、追いかけるだけやし。でもな、返さなあかんもんは返してもらわなあかんのですわ。そうせんと、あんたが大変なことになるで。分かってますか?」

 サングラスの奥で、細い目が光った。獲物を見つけた獣のような、底光りのする視線だった。

「わ、分かってます。仕事が決まったら、必ずお返ししますから……もう少しだけ、待ってください。お願いします」

 湊は腰を九十度に折って、頭を下げた。アスファルトの地面が視界いっぱいに広がる。自分のつま先と、男たちの革靴が見える。

 屈辱で、顔が熱くなった。

「それはそうと」

 サングラスの男が、何気ない調子で言った。

「あんたの結婚するゆうてた相手、どないしたん?」

 湊の心臓が、一瞬止まった。

「あれ、あの人がこさえた借金やろ? どこ行ったん、あの人」

「それは……」

 声が出なかった。

 喉が塞がる。答えようとしても、言葉が形にならない。

 ゆっくりと顔を上げた。血の気が引いていくのが、自分でも分かった。

 サングラスの男は、にやりと笑った。

「まあ、あんたが返してくれたらそれでええんやけどな。もし返せへんゆうんやったら、ええ仕事紹介したるけど。どないする?」

 湊は息を呑んだ。

 身体が震えた。恐怖で、足に力が入らない。

 逃げ場がない。

 そう思った、そのときだった。

 路地の入口に、黒い車が止まった。

 高級車だ。艶のあるボディが、朝の光を反射している。こんな裏路地には似つかわしくない、明らかに場違いな存在感。

 二人の男が、車の方を振り返った。

 後部座席の窓が、静かに下りた。

「――すみません」

 聞こえてきたのは、低く落ち着いた声だった。

「その方、僕に用事があるんです」

 湊は、その声の主を見た。

 黒髪を短く整えた男が、車の中からこちらを見ていた。三十代半ばくらいだろうか。切れ長の目は冷静で、感情が読めない。シンプルだが明らかに高価なスーツを着ている。

 静かな声だった。穏やかとすら言える声だった。

 なのに――譲る気配が、まったくなかった。

 サングラスの男が、眉をひそめた。

「はあ? あんた誰や。関係ない――」

「鷹宮です」

 男は名刺を差し出した。

鷹宮雄一たかみやゆういち。彼とは、少し話があるんです」

 その名前を聞いた瞬間、空気が変わった。

 背の高い男の顔色が、明らかに変わった。サングラスの男も、わずかに身じろぎした。

「鷹宮……? タカミヤホールディングスの……」

「ご存知でしたか」

 男――鷹宮は、薄く微笑んだ。笑っているのに、目は笑っていなかった。

「金銭の話であれば、僕が聞きます。詳細を整理して、後日お伝えしましょう。今日のところは、彼を預からせてください」

 命令ではなかった。お願いの形をしていた。

 なのに、断れる空気ではなかった。

 サングラスの男は、しばらく鷹宮を睨んでいた。でも、やがて舌打ちをして、湊の腕を離した。

「……チッ。まあええわ。ほな、よろしゅう頼みますわ」

 二人の男は、足早に路地を去っていった。

 残されたのは、湊と――車の中の男だけだった。

 緊張が解けた瞬間、膝から力が抜けた。

 その場にへたり込みそうになる。壁に手をついて、なんとか身体を支えた。

 助かった。

 ――助かった?

 何が起きたのか、まだ頭が追いついていない。誰だ、この人は。なぜ助けてくれた。どうして自分のことを知っている。

 混乱する思考の中で、一つだけ確かなことがあった。

 見られた。

 こんな惨めな姿を、見られてしまった。

 恥ずかしさで、顔が熱くなった。逃げて、追われて、情けなく許しを請う姿を、見ず知らずの人間に見られた。

「大丈夫ですか」

 鷹宮が、車から降りてきた。

 近くで見ると、さらに存在感があった。百八十センチは超えているだろう。細身だが、スーツの下には筋肉がついているのが分かる。全身から漂う空気が、普通の会社員とはまるで違った。

「乗りますか」

 鷹宮が、後部座席のドアを開けた。

 湊は、その手を見た。長い指。手入れの行き届いた爪。高価そうな腕時計。

 ――乗ってはいけない。

 そう思った。知らない人の車に乗るなんて、危険に決まっている。

 でも、他に選択肢がなかった。

 ここで断って、どこに行けばいい。財布の中には、もうほとんど何も残っていない。今夜泊まる場所すらない。

 ゆっくりと、車に乗り込んだ。

 車内は静かだった。革張りのシートが、疲れた身体をやわらかく受け止める。冷房が効いていて、汗ばんだ肌に心地よかった。

 ドアが閉まった。

 外の音が、遠くなった。

 鷹宮が隣に座った。近い。狭い車内で二人きりだ。逃げ場がない。

「君、ちゃんと食べてないね」

 唐突に、そう言われた。

 湊は目を逸らした。答えられなかった。

「住所は?」

「……ありません」

「仕事は」

「……失いました」

「借金は」

 湊は黙った。喉が詰まって、声が出なかった。

 鷹宮は静かに湊を見ていた。責めるような目ではない。ただ、観察しているような目だ。まるですべてを見透かしているようだった。

「結婚する予定だった人がいた、と聞いたけど」

 心臓が跳ねた。

 どうして知っている。さっきの会話を、聞いていたのか。

「……婚約していた相手が、消えました」

 やっとのことで、それだけ言った。

 それ以上は、言えなかった。言葉にすると、すべてが現実になってしまう気がした。愛していた人に騙されていたこと。信じていた未来がすべて嘘だったこと。自分がどれだけ愚かだったか、認めなければならなくなる。

 鷹宮は、それ以上追及しなかった。

 ただ、静かに言った。

「家に来るといい」

「――え?」

「今夜、泊まる場所がないんだろう」

 車が動き出した。

 外の景色が流れていく。見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。

 湊は、何も言えなかった。断る言葉が、出てこなかった。

 ありがたい、と思った。

 でも、怖い。

 この人は、なぜこんなことをしてくれるのだろう。見ず知らずの、こんな惨めな人間を、なぜ助けるのだろう。

 答えは出ないまま、車は高層ビルの立ち並ぶエリアへと入っていった。

             *

 車が止まったのは、タワーマンションの地下駐車場だった。

 エレベーターで上へ上がる。階数表示が、どんどん増えていく。三十階を超えた。四十階を超えた。

 最上階で、扉が開いた。

 廊下は静かだった。足音が吸い込まれるような、厚いカーペット。壁には絵画が飾られている。他に人の気配はない。

 場違いだ。

 自分がここにいること自体が、間違っている気がした。

 汚れた服。くたびれたリュック。何日も風呂に入っていない身体。すべてが、この空間に似つかわしくない。

 鷹宮が、部屋のドアを開けた。

「入って」

 促されるまま、中に足を踏み入れた。

 広い。

 リビングだけで、湊が以前住んでいたアパートの三倍はある。窓からは都心の夜景が一望できる。家具は少ないが、どれも高価そうだった。

 現実感がない。夢の中にいるみたいだ。

「シャワーを浴びるといい。服は用意してある」

 鷹宮が、脱衣所の方を指した。

「出たら、少し話そう」

 湊は頷いた。他に、できることがなかった。

 シャワーを浴びながら、ぼんやりと考えた。

 この人は、何者なのだろう。なぜ自分を助けたのだろう。何を求めているのだろう。

 温かい湯が、冷えた身体を温めていく。何日ぶりかのシャワーは、信じられないほど気持ちよかった。

 脱衣所には、新品の服が置いてあった。シンプルなシャツと、ゆったりしたパンツ。サイズは、ぴったりだった。

 ――どうしてサイズを知っている?

 小さな違和感が、胸の奥に引っかかった。

 リビングに戻ると、テーブルに食事が用意されていた。

 温かいスープ。パン。サラダ。シンプルだが、ちゃんとした食事だった。

「食べて」

 鷹宮が、椅子を引いた。

 湊は座った。スプーンを手に取った。一口食べた瞬間、身体の奥から力が湧いてくるような感覚があった。

 美味しい。

 温かい。

 それだけで、泣きそうになった。

 鷹宮は、向かいの椅子に座って、静かに湊を見ていた。

「落ち着いたら、聞いてほしいことがある」

 湊は顔を上げた。

 鷹宮の目は、相変わらず感情が読めなかった。冷静で、静かで、どこか遠い。

「助けることは、簡単だ」

 鷹宮は言った。

「借金の整理も、住む場所の確保も、仕事の紹介も。僕にできないことはない」

 淡々とした声だった。事実を述べているだけの声。

「でも、条件がある」

 湊の心臓が、どくりと鳴った。

「条件……?」

「雇用契約を結んでほしい。住み込みで僕の元で働く。生活は僕が管理する」

 管理。

 その言葉が、妙に引っかかった。

「君には選択肢がないことは分かっている」

 鷹宮は、静かに続けた。

「だから、悪い話ではないはずだ。衣食住は保証する。借金も、僕が立て替える。君は、僕のために働けばいい」

 湊は、何も言えなかった。

 断る理由が、見つからない。

 断ったところで、どこに行けばいい。明日の宿代すらない。仕事もない。頼れる人もいない。

 今、この人の手を離したら――たぶん、本当に終わりだ。

「……分かりました」

 声が震えていた。

「お願い、します」

 鷹宮は、薄く微笑んだ。

「いい子だ」

 その言葉が、なぜか背筋をぞくりとさせた。

「大丈夫。君の明日は、僕が用意する」

 窓の外では、都会の夜景がきらめいていた。

 その光がどれだけ美しくても、湊には分かった。

 自分は今、何かの檻に――足を踏み入れたのだと。

 救いなのか、罠なのか。

 それすら判断できないまま、湊は鷹宮の視線の中で、身動きが取れなくなっていた。

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